作品そのものはもう前のものになりますが、昨年映画化されたことで記憶に新しい人も多いことでしょう。
さてストーリーは2部構成になっていて1部目は不倫の末、堕胎し子供を産めない体となった希和子は、ある日不倫相手の家から衝動的に生後半年の恵理菜を誘拐。恵理菜を生まれるはずだった自分の子供・・薫と名づけ、そこから希和子の逃避行がはじまる。親友、立ち退き迫られる家、エンセルホームという宗教団体、そして小豆島へと逃げ延びる。希和子は薫をわが子のように愛しむ日々。春は新品のランドセルを輝かせる近所の子供たち。そんな姿を見て薫の将来を思うが今を生きるしかない希和子と薫。しかしそんな希和子と薫の擬似親子関係が終わる日も近づいていた。
2部目は誘拐された恵理菜(薫)が本当の家族に戻り成長した後の話しである。誘拐事件のため家に戻ったものの報道されたゆえ、普通の生活を失った秋山家。当然親子間もぎくしゃくする。成長した恵理菜(薫)はまた希和子と同じような道をたどっていた。そんな中でエンゼルホームで一緒であった千草と再会し、千草と共にかつての事件をたどり、自分のこれからの道をみつけていく。
さて逃亡生活の中は、子育てをしているゆえ、現実に突っ込みを入れたくなる部分がありますが、最後まで自分ではなく薫を気にかけるシーンは希和子は母親そのものであった。本当の親子ならばと願いたくも感情移入させられる。後半の薫もまた希和子と同じような道を辿っていきます。
悪と知りつつも、その流れを断ち切れない。このもやもやと霞んだ世界が人間なのかもしれません。
ラストシーンは、ぐっと思いを濃縮した作りが最後まで読者を惹きつけるし、無理にまとめあげようとしないところが自然でした。
途中、小豆島み住む昌江さんの言葉に「あんたが野々宮希和子じゃなくて、宮田京子だったら…」という言葉はぐっときます。本当の親子だったら恵理菜(薫)は貧しくても幸せだったろうにと思いました。
もしあの時誘拐していなければ、逃亡生活など送らずすんだろう
もしあの時シングルマザーになっていれば、誘拐なんて思わなかったろう
もしあの時不倫相手と決別できていれば、普通の生活ができたろう
こんな具合に「もし」の選択が並ぶ。
人は小さな選択をくりかえす。いきなり大きな間違えを出すことって実は少ないのだ。この小さな選択の積み重ねの結果が今にある。
もし~ならば
言っても仕方ないことだけれども、人はそんな危うくて、ふわふわしたところがある生き物なんだなあと思う。
しかしこの作品、本当に腐男しか出てこないので共感する男性読者は少ないかもしれません(汗)